大学改革、何が核心か(高杉公望)

−−大学の大衆化、ポスト・モダン、グローバリズムをめぐって−−

 

 日本の大学がおかれている状況は、日本特有の問題もあれば世界共通の問題もあり、それらの複合したものとなっている。

 まず、先進国共通といえる問題群には大学の大衆化、情報技術の発展、学問そのものの発展・変化などさまざまなものがあげられる。だが、とくにいわゆる「市場原理主義」、グローバリズムによって財政緊縮路線のあおりを受けているということが大学「改革」論議のながれを決定づけている。たしかに英、米、ニュージーランドなど英語圏の国々を中心に、「市場原理主義」、グローバリズムによる大学「改革」がすすめられてきた。それらはけっきょく学費を負担できない低所得層の切りすてにつながってきた。その意味でたいへん問題のある政策である。

 とはいえ、このような批判の仕方にはあいまいさがある。もともと政府がすすめている改革の方向性が過度に市場主義的であることを批判するために「市場原理主義」という揶揄的表現をつかっているにすぎないからである。すなわち、べつに当局者がみずから「市場原理主義」を自認しているわけではない。あくまでも、市場に委ねたほうがよいことは市場に、そうでないものは税金をつかって、という原則論を前提としながら、具体的にはなんでもかんでも市場まかせにするという安直な発想に立っているにすぎない。なぜそのような安直さがまかり通ってしまうかというと、先進諸国の政治構造、世論形成の構造からすれば市場化、自由化に反対するほうの理論武装がいまだに推進派の論理構造を理解すらしていない段階にあるために、有効な反撃をなしえない場合がほとんどだからである。

 それゆえ、はじめに造物主のごとき体制側に「市場原理主義」とかグローバリズムというような首尾一貫したイデオロギーがあるかのように想定して、そこから演繹されてくる政策であるかのように話を進めて政府の市場化・自由化推進派の政策批判をしようとしても、まったく話がかみ合わなくなってしまい、一方的に推し進められてしまう結果となる。

 このばあい大事なことは、研究や教育のどの部分は市場にまかせてよいのか、どの部分はそうしないほうがよいのか、また、市場にまかせないとした場合、それが国家統制でないとしたらどのような制度が研究、教育の発展のために望ましいのか、といったことを政府にたいして具体的に対抗提案することである。

 しかしながら、日本やヨーロッパの進歩的な大学人、知識人のあいだには、旧ソ連・東欧の崩壊によってソ連型社会主義からも、より一般的に理想主義や改良主義からすらも心情的には離脱したが、依然として理論的に社会主義がなぜ失敗し、万能にはほど遠い市場が強靱でありうるのかについて理解できていないひとが圧倒的に多い。また、ぎゃくに理論的にはそれを認めても、なかなか心情的に共同体志向のイデオロギーや前衛的エリート主義からはなれられない人もある程度いる。

 こうしたひとびとにとっては、先進諸国の大学が高度大衆消費社会、大衆民主主義といった歴史的な発展段階の変化によって、一般大衆の消費者ニーズという新しい権力とのあいだで「大学の自治」「学問の自由」をめぐって新しい契約をとりむすび、新しい制度づくりをしていかなければならないのだ、ということは眼中にはない。問題を「市場原理主義」「グローバリズム」「アメリカ帝国」といった悪玉の仕掛けてくる世界支配のための謀略に還元すれば、事態の理解は容易にすませることができる。しかし、「市場原理主義」を悪玉に仕立てる発想にとらわれているかぎり、どの部分は市場にまかせてよいのか、どの部分はそうしないほうがよいのか、などという議論の土俵にのることは条件闘争への屈服のようにみえてしまう。そのためにいたずらに孤立的な玉砕戦術による各個被撃破をくりかえし、かえって労働者や人民や学生の権利が不当に押しまくられるという結果をまねいている。

 

 つぎに、日本の大学問題に特殊な事情といえるのは、なんといっても日本政府の文教政策の深刻な混乱である。一方では日本のばあいは浅薄な「市場原理主義」を政治家、官僚、大学人がみずから信じこんでいるというにふさわしい国立大学の民営化・リストラ論がまかりとおっている。ところが、他方で独立行政法人化した大学を国家統制により天下り先として確保しようとしている文部科学官僚による姑息な法案形成過程がある。これら両者は一見したところ、グローバリゼーションのなかで共通現象としておこりがちの新自由主義と新保守主義のセットのようにもみえる。しかしながら、文部科学省にあるのは旧態依然たる旧保守主義である。すなわち、日本政府の文教政策はグローバリゼーションのなかでの「市場原理主義」、新自由主義と新保守主義のセットという解釈枠組みにあてはまるものですらない。

 現在、日本の文教政策において浅薄な「市場原理主義」と旧弊な旧保守主義の合成ベクトルとしてすすめられている方向は、結果として次のようなものになる。すなわち、研究者・教職員は国家統制のもとにおかれた教育サービス労務者として位置づけられる。学生のほうは切り売りされる教育サービスのメニューについての「選択の自由」だけを与えられた末端消費者として位置づけられる、ということである。

 もうひとつ日本の特殊性としてあるのは、1960年代以降の大学の大衆化にあわせた大学や学部の新設という「右肩上がり」が、まずバブル崩壊後の経済停滞によってゆらぎはじめ、さらに急激な少子化によって大学・学部の過剰感があらわれはじめたことである。つまり、大学定員と受験人口がひとしくなり、無試験でしたがって無学力でも入学させないと経営破綻におちいる大学が出てきたということである。

 こうした大学の大衆化をこえた超大衆化−−アメリカの教育学でこれを「ユニバーサル化」というのはユニバーシティとかけたのだろうが、意味もニュアンスもわかりにくい−−が、日本では平成不況による就職難の時代と重なり合っている。「大学は出たけれど」という状況がきわめて深刻なものとなっている。

 だが当然、無学力でも受け入れてくれるような大学に入学し卒業しても親はただ学費を払ったというだけのことで、学生自身はなにも身につかず、社会にでても何の足しにもならない。大学教師などは世間知らずの専門バカであっても魔術師ではないのだから、高校までの学力すらない子弟を大卒レベルに仕立てて卒業させるなどという魔法を親たちに期待させるとしたらあまりにも哀しいことである。「消費者は王様です」という言葉を引き合いに出すならば、「学問に王道なし」ということを直言しなければならないはずである。せっせと学費を貢がされる親御さんたちは裸の王様といわざるをえないのである。

 入学、卒業しても就職にもつながらないし、絶対的に「高等」遊民となることすらありえない。そのような大学は社会的な存在理由、社会が経済的にささえる理由を問われざるをえなくなる。だが、大学の大衆化・超大衆化は高度大衆消費社会、大衆民主主義の時代のあたらしい実験であり、結果がどうなるかははじめからわかっているわけではない。希望者全員が入学できるようになったとして、とりあえず大学にいってみようと考える進学率はどのくらいになるのか。そのさい、入学時の学力水準と潜在的な能力水準はどのくらいになるのか。またスポーツでたとえれば、オリンピックや国体の代表選手レベルの学生から逆上がりもできないようなレベルの学生層のひろがりにたいして大学制度全体としてどのような教育システムを構築するのか。それと、「国際競争力」のある先端的な研究システムとをどのように両立させるのか。社会の半分前後のひとが大学で学ぶとしたとき、学ぶ側のニーズは何なのか。学んだことで卒業後の進路はどうなるのか。これらは、長期にわたる試行錯誤をつうじてしか答えは出てこない。その過程では、右肩上がりの時代に過剰生産された大学の一部は存続が困難となる可能性は高い。

 少なくとも、ヨーロッパで行われているように入学は希望するだけでできるが、卒業は容易にはできないというかたちに一刻もはやくすべきである。ところが不思議なことに、いまの「大学改革」論議ではいっさいそういう声が出てこなくなってしまった。

 また、不幸にして「過剰」化してしまった大学に雇用されている教員、職員の生活はどうするのか。また、大学の超大衆化に歩調を合わせて大学院の大衆化もすすんでいる。その結果、職にあぶれている大学教員志望者は激増している。そこに既存大学の教職員の失職の可能性が重なって、問題はたいへん深刻な事態となりはじめている。これらは、大学設置の右肩上がりや大学院の大衆化を無定見におしすすめてきた政府の重大な政治責任である。

 では、どうすればよいのか。こんにち、学生の進学率が上昇して学力の平均水準が低下したり、基礎学力が多様化し不均質になっているなどの状態、さらには大学院生の倍増という状態からすれば、大学の数はへらさざるをえないにしても個々の大学の教職員の数は増員してゆくべきである。さらに日本では教員一人あたりの事務補助者の数が0.2人で先進諸国のなかではなんと五分の一しかいない。教員の絶対数を増員し、事務補助者の比率と絶対数を欧米なみにそろえていけば、相当程度に既存大学の統廃合から生ずる教職員の雇用問題、就職難の大学院生の雇用問題を緩和することができる。

 それだけではない。初頭・中等教育における少人数教育の充実を推進し、社会経験豊かな人を教員として採用していくことも、教育勅語のお題目を子供たちの眼にも倫理的ないかがわしさを感じさせるような仕方で復活するような、逆効果なことをするよりもはるかに直接的に子供たちの精神的成長にプラスに作用する。そうした政策転換は院生の就職先、あるいは教員養成学部の規模の維持という側面で研究者、教員の雇用の確保につながるだけでなく、より広くいって中高年の失業問題にたいするいくばくかの緩和要因にもなる。

 これらのことは、このうえなく経済合理主義にのっとっている。それがゆえに「市場原理主義」とはまったくちがっている。こうした経済合理主義的な政策が、財政難でできないなどということは理由にならない。日本は先進諸国のなかでは高等研究・教育予算が一国だけとび抜けてすくなく半分程度の財政支出しかしていない。国・地方・財政投融資あわせて六〜七十兆円にのぼる公共事業費のうち、ほんの3%程度を振り向けるだけで倍増となり、いっきょに先進諸国並みのレベルに躍り出ることができるのだ。

 

 おそらく日本の大学がおかれているなんともいえず薄ら寒い特殊状況には、もっと社会の土壌に根ざした根のふかい問題がある。

 そもそも大学という制度はイギリス、フランス、イタリアといった地域ではキリスト教の神学研究を基盤として自然発生してきた。大学という制度はキリスト教会(=教団)という独特の信徒間の結合原理から派生してきたものなのである。なお、キリスト教の教会というとわれわれはつい建物をイメージしてしまいがちだが、教会とは教団というのがほんらいの意味であるので、以下そのような意味でつかう。

 キリスト教は神の前での個人の平等や隣人愛ということを根本原理にかかげている。理想と現実のひらきはどうであれ、そのような原理をかかげた宗教が社会の文化的統合の機軸となっていた。そして、そのような原理をもっとも純化した神学を研究、教育する制度として大学は教会から派生してきた。つまり、教会が精神的にも物質的にも世俗社会を支配し、大学はそのような教会の神学的原理を純化して研究、教育する制度として派生してきたのである。このように、中世ヨーロッパのキリスト教原理主義に支配された社会においては、大学とは社会構成における支配と統合の原理そのものを体現する制度としてつくりだされてきたのである。

 このようなヨーロッパの大学は、中世における発足当初は教会権力が背後にあったために、世俗の封建領主、国家権力からの自治が可能であった。しかし、それは教会権力からの自治、自由を意味していたわけではなかった。ところが、近代になると政教分離による教会権力と国家権力との相互牽制を利して、双方からの自治を獲得していった。こうして西欧でも先進的な諸地域では、「大学の自治」「学問の自由」というきわめて歴史的に特殊な考え方が制度として生成されることとなった。

 しかしながら、西欧でも後進的なドイツをはじめ、それ以外の諸地域では政教分離もおくれたし、国民国家の形成もおくれた。そのため、先進諸国に対抗するかたちで政教分離も不徹底なままに王朝的権力が国民国家を上からつくりだすケースがほとんどだった。ドイツ、ロシア、日本などはその典型的な例である。それに対して、アメリカ合衆国だけは、ぎゃくにピューリタンだけからなる教会がそのまま世俗的社会となることを理想とした植民者たちが建設した植民州からはじまった点で例外をなしている。

 ドイツ、ロシア、日本などの後進諸国においては、はじめに王朝的権力が富国強兵・殖産興業の意図をもって法律、政治、経済、軍事などのもろもろの制度とともに学校教育制度や大学制度を先進諸国から移植した。したがって、形態としては英米仏の大学に似ていても、それはあくまでも政教未分離の王朝国家が設置した政府の出先機関にすぎなかった。「大学の自治」「学問の自由」というお題目も、外面的・形態的に移植されたにすぎず、社会の構成原理にも土壌にも有機的に結びついたものではなかった。

 しかも、ドイツ、ロシアはまだしもキリスト教国であるが、日本はキリスト教国ではないという事情がくわわる。それだけに国家権力とも、社会構成とそこにくらす民衆生活とも、さらにはそれらを文化的に統合する象徴秩序(天皇制自然思想)とも、大学(をはじめとする観念性の要素の大きい諸制度)は有機的にむすびつくことは困難であった。

 そのため日本では、とくに国立大学のばあいは、みずからの原点を思い起こそうとすれば、明治期の富国強兵・殖産興業を宿願とした政府による一機関としての設置ということになってしまう。戦後の前半期には反戦平和や戦後民主主義が熱気を帯びていたために国立大学も日本国憲法と教育基本法の理念をかかげていた。しかし、平成期になると、いわば殖産興業・富国防衛とでもいうように、国家と軍隊を多少うしろにひっこめて明治期の設立の原点への回帰がいっきょにすすんだかのようにみえる。つまり、産業技術立国の要請だけが大学という制度を日本社会において経済的にささえる唯一のリアリティのある言説となってしまった。それ以外の言説は、真理の探究とか民主主義、人権、国際平和への貢献、等々、まったく日本社会の空気層のなかでは空虚なひびきしかもたなくなってしまっているのである。

 

 では、あらためてキリスト教精神や啓蒙思想やモダニズムを徹底して、日本の国家や社会にたいして啓蒙の拠点としての大学を位置づけるべきなのであろうか。たしかにそうしたスタンスは、明治以来のモダニスト、リベラリスト、市民主義者の系譜の主張してきたところであった。だがいうまでもなく、そうした系譜は1960年代末の学生叛乱の時期に日本のみならずヨーロッパにおいても徹底的な批判にさらされることとなった。そして、その勢いは7080年代のポスト・モダン論につながっていった。

 リオタールの『ポスト・モダンの条件』(1979年、小林康夫訳、水声社、1986年)は、もともと「カナダのケベック州政府の大学協議会会長からの委嘱を受けて、同協議会に提出されたもの」であった。(リオタール、前掲、p.11)、とされている。リオタールの報告書はつぎのような問題設定からはじまっている。

 

 「われわれの作業仮説は、社会がいわゆるポスト・インダストリー時代に入り、文化がポスト・モダン時代に入ると同時に、知のステータスにも変化が生じるというものである。」(同前、p.13

 

 このようにいうリオタールによると、近代における大学や知の正当化には二つの大きなヴァージョンがあった。一つめは、すべての人間は科学への権利を持つということ、もし社会的主体がまだ科学的知の主体でないとすれば、それは教会や国家によって妨げられているからだとするものである。たとえナポレオン帝政において高等教育が行政的、専門的能力の養成を意図としていたとしても、「それは、彼らの行政活動や専門職活動を通じて、全体としての国民自身が、大衆への新しい知の普及を利用しつつ、みずからの自由を勝ち取ると見なされている、ということなのである」(同前、p.84)とする。ただし、この潮流のうちマルクス主義などに体現された革命、解放の大きな物語は解体してしまった。この点、リオタールの説明は曖昧だが、大衆に奉仕する有効性、効率性の論理のみが生き残ることとなったとみているようである。

 これに対して二つめは、1807年から1810年にかけてのベルリン大学の創設において提示されたドイツ観念論による大学の理念である。これは19世紀末から20世紀初頭にかけてアメリカを筆頭に多くの国の高等教育の制度化ないしは制度改革のモデルとなったものである。「大学が果たすべき偉大な機能とは、『知識の総体を提示し、知全体の原理と根拠を同時に明らかにすること』である。なぜならば、『思弁的精神なしには創造的な科学の能力は存在しない』からである」(同前、p.88)というのが、その根本理念である。この潮流は、実証主義やテクノロジーからニーチェ以降の現代哲学までの発展によって解体されてしまったという。

 このように近代の大学理念の二大ヴァージョンとその解体を示したあと、リオタールはつぎのようにいっている。

 

 「この両者の違いをはっきりと示しておかねばならない。というのも、知のステータスが危うくなり、その思弁的統一性が打ち破られた今日、この正当性の第一のヴァージョンの方が、新たな息吹きを取り戻しているからである。」(同前、pp.9192

 

 すなわち、脱工業化社会におけるポスト・モダン文化状況においては、大衆への新しい知の普及と、それをつうじたひとびとの自由の拡張という、社会的な有効性と効率性を基準とした第一のヴァージョンが回帰してくるということである。そこにおいては次のような事態が進行してゆくとされる。

 

 「こうした一般的な変化に応じて、知の性質そのものも変わらざるを得なくなる。知が新しい流通回路にとって操作的であり得るためには、知識は多量の情報へと翻訳されるのでなければならない。」(同前、p.15

 「世界市場の再開放、極めて活発な経済競争の再燃、アメリカ資本主義の圧倒的ヘゲモニーの解消、社会主義という選択の衰退、予想される中国市場の対外開放、その他多くのファクターがすでに、この七○年代末の時点で、国家が三○年代以降一貫して果たしてきた保護と指導、そして投資の計画化という役割を真剣に見直すよう国家に迫っているのである。こうした文脈のもとでは、新しい技術の出現は、決定にとって有用な(それ故にコントロールの手段でもある)データを、さらに可動的で、盗用しやすく、また剽窃しやすくしてしまうのであり、それ故に、一層この再検証を緊急で重大な課題としているのである。(中略)このような場合には、一層の透明さ、そして自由主義があることになるだろう。だが、自由主義とはいえ、金の流れにおいては、一方には決定に役立つためのものがあり、他方には支払いのためのものがある。同様に、知識の流れもその同じ回路を通り、同じ性質を持つものと想像できよう。」(同前、pp.1819

 

 このようにして、1979年の時点でリオタールが目の当たりにしていたうごきは、90年代にはいるといよいよ新自由主義的、「市場原理主義」的、グローバリズム的な大学市場化のうごきとなって全世界を覆っていった。つまり、リオタールのいう知や大学をめぐるポスト・モダン状況とは、こんにちふうにいえばまさに新自由主義、「市場原理主義」、グローバリズムによる経済効率至上主義に押しまくられて、古典近代的な大学理念がもはや通用しなくなっているという現実認識であった。

 

 もともと日本社会においては近代精神が社会的な土壌に根づいていたわけではない。そのため、十代の終わりから「大学の自治」の中にのみ棲息し、現実の社会とは特権的に隔絶されてきた啓蒙的進歩派タイプの教員たちが、そのまま輸入知識としてのポスト・モダンの風潮に浸りきってしまうと、大学という制度にかんする理念の立ち枯れはいとも容易なことであった。その意味で、1930〜40年代の「近代の超克」のときに「大学の自治」「学問の自由」が内部崩壊したことと、1980〜90年代のポスト・モダンのときにそれが再現したこととは、偶然の一致ではなかった。「大学の自治」「学問の自由」というのは、とりわけアメリカとフランスのような市民革命にとおして構成された近代市民社会いがいの社会にとっては、いわばその社会の構成的原理そのものの核心部分をなしていたりはしないからである。

 その証拠に、もっともあからさまにそうしたものが否定されたのは、近代市民社会をブルジョア社会として真っ向から否定した共産党政権下のソ連圏においてであり、また西側諸国においても共産党指導下の文化運動においてであった。その徹底性は、日本の軍国主義がわかき丸山真男をして『日本政治思想史研究』(1940年から44年にかけて『國家學會雑誌』に掲載)を執筆、公表することをさまたげなかったことにすら比べるべくもなかったのである。

 1930〜40年代の日本における「近代の超克」論は、マルクス主義こそ近代思想の最高形態だとしながら、それを右から批判するものであった。また、1980〜90年代のフランス発のポスト・モダンも、マルクス主義の解体を意識しニーチェに拠り所をもとめた点では「近代の超克」論と共通していたが、心情的には左派であった点で対照をなしている。

 だが、リオタールのポスト・モダンにしろ、アルチュセール、フーコー、デリダらによる近代的な人間主体の消滅にしろ、マルクスの経済学批判、ニーチェの形而上学(プラトニズム、イデア論)批判、フロイトの心理学批判、ソシュールの言語学批判、そして文化人類学による西欧近代文化の相対化という画期的な諸業績を前提としながら、過度にセンセーショナルな言辞を弄したものにすぎなかった。内実としては、モダンの社会構成に特有な社会的諸関係の結節点として存立している人間・主体、市民社会、自由、民主主義、人権などなどについて、マルクス、ニーチェ、フロイト、ソシュール等々に準拠しながら、それらは特定の歴史発展段階における特殊な社会構成の産出物(構造的効果)であるという相対化がなされたということにすぎなかったのである。

 しかしながらこれらの論者たち自身がのちには、いずれも過度のセンセーショナリズムについて自己批判している(たとえばアルチュセール『不確定な唯物論のために』など)。だが、翻訳輸入文化の日本では、往々にして自己批判する以前のセンセーショナルな言説だけが独り歩きしてしまっているのである。

 したがって、大学制度という近代西欧的な社会構成の核心をなす結節点についての反省的な相対化も、あたかもそれを全面失効と宣告するかのような言説が一時期展開されたのも事実であった。しかし、これはこれで、先進諸国のなかでもとりわけ特権的に保護されてきたフランス・アカデミズムが状況の変化に狼狽して発せられた泣き言のようなところがあった。

 歴史を客観的にながめればヨーロッパにおいても、大学という制度はつねに教会権力や国家権力や一般社会との緊張関係にあった。それを幸福な20世紀後半のアカデミシャンたちが忘却して、フランス革命以降は確固として存続してきた「大学の自治」が産業化、大衆化の波のなかで歴史的に終焉しようとしている、などというように誤った表象を描き出したのにすぎない。じつはイギリスでさえ19 世紀半ばまではオックスフォード、ケンブリッジといった大学はイギリス国教会の干渉から自立的な存在ではなかった。世俗の学問である経済学の講座が設けられたのは19世紀末になってからのことである。

 ましてやドイツでは、共産主義者になる前の急進的自由主義者の時期のマルクスやその周辺のヘーゲル左派のひとびとでさえ、大学に教職をえることなどできなかった。文字通りフォイエルバッハらヘーゲル左派は宗教の批判(政教分離の主張)からはじめなければならず、その批判によって教職への途をとざされた。ドイツのような国家主義のつよい国では、そもそも本当の意味で「大学の自治」が語れるのかどうかすらあやしい。19世紀末から20世紀初頭のドイツ第二帝国(1871〜1918年)の時代にのみ、ドイツの繁栄と栄光とともに相対的に「大学の自治」らしきものがあらわれたにすぎない。第一次大戦後はマルクス・レーニン主義と反ユダヤ主義の左右からの荒波によってドイツの大学は大揺れに揺れ、ワイマール共和国の没落からナチス独裁政権への移行とともに、「大学の自治」「学問の自由」などは粉々に粉砕されていった。皮肉なことに、第二次大戦によって「近代」も「近代の超克」もずたずたに引き裂かれたあとに、冷戦構造下の西側「自由主義陣営」のもとで、はじめて西ドイツに本格的な「大学の自治」「学問の自由」は制度化されたのだといえよう。

 日本のアカデミシャンたちが憧憬してきたドイツ・アカデミズムの特権性とは、じつは裏を返せばドイツの官憲的国家主義の忠僕であり、官吏をはじめとする特権的エリートの養成機構としての特権性だったのである。戦後日本の新制大学の教員たちが無邪気に憧れの念を抱いてきたのは、そのようなドイツの大学であり、それを模範として明治国家が設置した帝国大学であった。(もっとも、じつは日本の大学のほうが閉鎖的な学部教授会の自治が強力に保護されていることは、瀬木守一『ドイツの大学 文化史的考察』1986年、講談社学術文庫、1992年、参照。)

 しかも、明治期の日本は急激な文明開化のために破格の待遇で外国人教師をまねき、官費留学生を派遣し、急ピッチで日本人教師を養成していった。そうして養成された初期世代における日本人教師たちも語学力以外の質はともかく数量にかぎりがあったから、外国人教師と同様に破格の厚遇と社会的な尊敬の念を一身に集めることができたのであった。それを戦後新制大学の教員たちがうらやむのは当然であったが、あまりにも無邪気だったことは、それが特殊な歴史的条件によることなど思いもよらなかったことである。

 このように、「大学の自治」「学問の自由」という特権性の社会的、歴史的な特殊性にたいする無自覚さがむざんなまでに露呈されたのが、1960年代末における大学紛争にさいしての対応ぶりであった。当時、吉本隆明はつぎのように激しい言葉で大学人たちの対応ぶりを批判した。

 

 「大学の教授研究者にとっては、大学は学問思想研究の自由と設備が保証され、社会から『プレスティジ』のある地位として評価されることが必要にちがいない。そして大正期のリベラル・デモクラシイの思潮のなかで、この願望はある程度実現された時期があったのである。そして十五年戦争に突入する過程で、この虫のいい幻想はかれら自身の手によって、また政治的強制によって崩壊した。学生たちは動員されるか軍隊にかり出され、教授たちは思想的にまたは行動的に軍国主義に従属した。

 敗戦によって思想的な二重底の仕掛けをとり払われたかれらは、戦場から、あるいは研究室に居据わったまま、一夜にして楽天的な戦後民主主義者に変貌した。そして学問研究の自由、思想言論の自由という、すでにかれらも手をかして葬ったはずの理念で、大学を復興できるものと錯覚したのである。学問研究の自由、思想言論の自由を葬った罪責は、すべて軍国主義の必然悪になすりつけられた。」(吉本隆明『情況』1969年、『吉本隆明全著作集(続)10』p.14

 「現在、大学紛争の根底にあるのは、戦後の大学の理念として潜在してきた市民民主主義思想のなか身の問題である。かれらは学問研究の自由、思想の自由という名目のうちにある特権を、じっさいに大学が温存してきた前近代的な学閥支配体制の解体のために行使せずに、『プレスティジ』のある地位を保守するために逆用してきたのである。」(同前、p.16

 

 リオタールの『ポスト・モダンの条件』にも、どこか日本の戦後新制大学の教員たちの無邪気さと似かよったところがある。もし、フランスの大学がフランス革命以降は、ナポレオン第一帝政、王政復古、七月王政、第二帝政まで一世紀近い政治的波濤のなかでも「大学の自治」「学問の自由」を満喫できていたというならば、そこには特殊フランス的な知の特権性があるのだといわなければならない。日本が「近代」になる以前の徳川時代において、寺子屋の普及によって高い識字率を達成していたのにたいして、それよりもはるかに低い識字率でしかなかった19世紀のフランス社会における知の特権性である。王侯貴族、政治家、官僚、軍人も知をやたらと尊重する気風、一般民衆の利益と隔絶していることになんらの痛痒を感じないですむ風土、これが全世界で例外的に確固としたフランスの「大学の自治」を保障したのではないだろうか。

 イギリスでもドイツでもフランスでも、第二次大戦までは大学はごく少数の聖職者、学者、医者、弁護士、官吏の養成機関であって、そこには資本家、ビジネスマンですらふくまれていなかった。だから、資本家の跡取り息子であったフリードリッヒ・エンゲルスは正規に大学にいくことは親に許してもらえなかったのであった。

 

 第二次大戦後、先進諸国では一般民衆の生活水準が劇的に向上をはじめた。それとともに高等教育の門戸開放の要求も高まっていった。そこに1960年代以降の大学大衆化のうねりがはじまったのである。それは大衆民主主義の台頭でもあった。そうした風はソ連のほうから吹いてきたのではなく、アメリカのほうから吹いてきたのであった。それがまた進歩的知識人にはいかがわしく感じられたのであった。大学の大衆化は資本家、ビジネスマン、エンジニアの養成のみならず、少しでも高給をとれるように「労働力の商品化」をしてほしいという一般民衆じしんの世俗的な欲求に、もとはといえば聖職者養成機関だった大学がさらされることになるということを意味した。

 このようにして第二次大戦後、高度大衆消費社会、大衆民主主義とともに大学が大衆化してきた。大学が大衆化することによって、一般民衆の世俗的な要求=消費者のニーズを大学は突きつけられることとなった。かつては教会権力と国家権力とのあいだで「大学の自治」「学問の自由」が問題とされてきた。いまや一般大衆の消費者ニーズとのあいだでそれらが問題とされなければならなくなった。

 この問題は、各国の文化的伝統のなかで異なった受け止め方をされる。フランスのように、ともかく知そのものが特権的に尊重されてきた社会では、一般大衆の識字率そのものが低かろうと、一般大衆から搾り取った酷税でアカデミズムの特権を維持することは当然視されてきた。そのような社会では、大学の大衆化によっていままで文字も読めなかった一般大衆がいろいろ大学に対してニーズを突きつけてくること自体、驚天動地のことであろう。しかし、フランスの例は極端化されているにしても、世界中の大学人に多かれ少なかれ共通するメンタリティなのである。

 大学人にとって驚天動地の事態に狼狽して、なにが本当におこっていることなのかまったく正確にとらえることができないできた。それがこの何十年間の実情である。そして、ポスト・モダン、グローバリズム、「市場原理主義」などなどの空語をみつけては、「そのたびそいつのせいにする」(中島みゆき「世情」)。

 重要なことは事態を冷静に分析することである。大学の大衆化は歴史発展段階としてはよいことなのだ。しかし、だからといって、「いままで文字も読めなかった」一般大衆の素朴な欲求にそのままダイレクトに従属し、「大学の自治」「学問の自由」を武装解除していいわけでもない。現在の大学人は、中世の教会権力、近世末期・近代初期の国家権力とちがう、現在の権力としての大衆の剥き出しで無定型の欲望とわたり合い、「大学の自治」「学問の自由」をとりつけなければならないのである。

 大学は宙空に霞をたべて存在してきたわけではない。一般大衆の生産物の余剰を、教会権力や国家権力をつうじて分配されることによって存在してきたのである。そうでありながら教会権力や国家権力からの自治、自由をとりつけてきた。そして、そのような制度として大学を社会に位置づけることによって、(おそらく意図せざる結果として)学問のみならず法、政治、経済、産業・技術などなどが急激に発展をするような社会構成が生成されてきた。その恩恵で、一般大衆の生活水準も政治的発言権も著しく向上し、こんにちの大学の大衆化・超大衆化の時代を迎えたのだ。

 

 「現実社会のなかで、大衆がみずからの胸の中に圧殺してしまった願望が、吐息となって結晶して、この大学という名の<天国>を人工的につくりあげているにすぎない。(中略)本質的な意味で<学問の自由・思想の自由>といった大学の理念を改廃できるのは、郷党のひとびとの共通な夢や願望だけである。だから当然、郷党のひとびとが(つまり、市民、大衆が)大学にたいする夢や願望をひっこめてしまえば、この大学の理念は消滅してしまうはずであり、また逆に、郷党のひとびとが大学にたいする夢や願望を膨らませれば膨らませるほど<学問の自由・思想の自由>という理念は<天国>の高みにおしあげられるはずである。<大学人>による大学の自治というような幻想は、本質的にいえばこの大衆の夢や願望いがいのものによって左右されることはありえない。ところが<大学人>と称する連中は、かれらの学資を醵金してくれた郷党のひとびとに(つまり、市民、大衆に)、われわれの<学問の自由・思想の自由>をまもって欲しいと訴えもしないだけでなく、これらのひとびとを異人種のように袖にして素性をおしかくしている。」(吉本隆明『情況』1969年、『吉本隆明全著作集(続)10』、pp.143−144)

 

 1969年の時点において、吉本はこのようにいっていた。事態はなにもかわらぬままに推移し、ついに今日を迎えている。国立大学の独立行政法人化などという「失われた十三年」の経済政策と同様に根本的に非論理的な政策にも、それはおかしいと国立大学協会が市民、大衆に訴えようとした試しはないし、完全に市民、大衆は冷淡な無関心のうちにある。しかし実際問題として、ひろい意味での「大学の自治」「学問の自由」とは、人類史が「意図せざる結果」として獲得してしまった不可逆的な成果であるということについて、現在的権力としての大衆の欲望にむけて公共的な説得をおこなうこと自体が困難なはずはない。

 むろん、そのために駆使される言説は、日本共産党系の大学教員だけが二段階革命論の第一段階=ブルジョア革命論によって臆面もなく主張できるような近代的理念としての「大学の自治」の鸚鵡返しや、そこに「市場原理主義」、グローバリズムといったことばを付け加えただけのものや、ぎゃくにドイツ観念論系統の大学理念の崩壊に狼狽したリオタールのようにポスト・モダン状況に際会して近代的な大学理念そのものの武装解除をうけいれつつ不毛な言語遊戯の技法に堕してしまう、といった態のものいがいのところに求められなければならないだろう。

 しかし、ひろい意味での「大学の自治」「学問の自由」を、いったん獲得した以上手ばなすべきではない人類史的な成果として維持するにしても、具体的な大学制度については時代状況、学問状況、情報通信技術の発展状況によって、たえず変革が必要となることはいうまでもない。日本の具体的事情でいえば、「大学の自治」という普遍性の高い抽象的理念と、学部縦割り教授会の自治(不輸不入の権)という既得権益とを区別して議論することは必然である。

 そして、変革は既存の教科書に書いていないことをやらなければならないのだから、はじめからうまくいくとは限らない。失敗をくり返しながら試行錯誤していくことが、大学のような制度をめぐっても可能となるような社会構成となっていくことがもとめられている。一般大衆が気長に資金提供しつづけてくれる余裕をもつことを納得してもらう努力は、たえず大学の側がしなければならないことである。かつて大学人の先祖たちは中世教会権力や近世絶対主義の国家権力に最大限の気をつかって「大学の自治」を追求してきた。かれらは天賦の「大学の自治」を悠久のむかしから享受してきたわけではなかったのである。(20021122日脱稿)

 

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